神は漸進的に導かれます。

ものみの塔協会が教義を変更するときに決まって使われるのがこの言葉です。

エホバが一体どのようにご自分の民を導いてこられたかということは、次のような例えで説明できるかもしれません。ある人が暗い部屋の中に長時間いた場合、その人に徐々に光を当てるのが最善ではないでしょうか。エホバはそれと似た方法でご自分の民に真理の光を当ててこられました。彼らを漸進的に啓発されたのです。(ヨハネ 16:12, 13と比較してください。)箴言が述べているとおりです。「義なる者たちの道筋は、日が堅く立てられるまでいよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ」―箴言 4:18。
『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』、708ページ

神が与えられるのは真理のみであり、それが漸進的に明らかにされるということは、「明らかにされた真理」と、「まだ明らかにされていない真理」があるということです。統治体が語ることを許されているのは、「明らかにされた真理」のみであり、それ以外については口をつぐんでいるべきなのです。一度真理だとして発表したことが、後に誤りであると判明するなどというのは、真のクリスチャンにはあるまじきことです。

統治体は物事を決定する際に、祈り、そして、聖霊の導きを得ていると主張します。

どんな伝道方法がこの「終わりの日」に最もふさわしいかを決めるに当たっては、神の指示と聖霊の導きを祈りのうちに求め、聖書中の先例に従います。―テモテ第二 3:1。使徒 15:23, 28。
「真のクリスチャンは王国伝道者です」『ものみの塔』1985年8月1日号、15ページ

霊感を受けた神の言葉に明示されている指示を祈りのうちに適用し、その指示を用いて、だれが奉仕の立場に就く資格を持つのかを決定するのは、奴隷級の義務となります。
『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』、219ページ

統治体は、エホバの証人の世界的な活動を指導し、漸進的な啓発を与える霊的食物を発行し、司法上の決定をするなどの面でよく協力して働いています。毎週水曜日に行なわれる会合は祈りで始められ、エホバの霊の導きを仰ぎます。扱われる事柄や下される決定の一つ一つが、神の言葉である聖書と調和していることを確かめるために真の努力が払われます。
「エホバの霊に導かれている組織内での私の人生」『ものみの塔』1988年3月1日号、17ページ

以前の聖書解釈も、「祈りで始められ、エホバの霊の導きを仰」いで決定されたはずです。それが変更されたということは、祈りを通し聖霊の導きを受けても、真理か否かを正確に判断することができないということを意味します。つまり、聖霊には「当たるも八卦当たらぬも八卦」程度の効力しかないということです。もし聖霊が本当に神の活動力ならば、統治体が古い解釈を決定した際、聖霊の導きなどなかった、すなわち、それが人間の考えにすぎなかったわけです。

『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』は、続けて次のように述べています。

聖書時代にエホバがご自分の選んだ僕たちと持たれた交渉は、神のご意志と目的に関する明確な理解がしばしば徐々に与えられることを確証しています。例えばアブラハムは、「胤」に関するエホバの目的がどのように果たされるかを十分に理解してはいませんでした。(創世記 12:1-3, 7; 15:2-4。ヘブライ 11:8と比較してください。)ダニエルは自分が記録した預言の最終的な結末を把握していませんでした。(ダニエル 12:8, 9)イエスは地上におられた時、現在の事物の体制が終わる日と時刻を知らないことを認められました。(マタイ 24:36)使徒たちは当初、イエスの王国が天的なものであることや、その王国が1世紀には設立されないこと、また異邦人もその王国を受け継げることを理解していませんでした。―ルカ 19:11。使徒 1:6, 7; 10:9-16, 34, 35。テモテ第二 4:18。啓示 5:9, 10。
『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』、708-709ページ

ものみの塔協会は、ここで過去のエホバの僕たちを例に挙げて、自分たちの間違いを正当化しようとしています。しかし、ここで見落としてならないのは、あることを「理解していない」、あるいは「知らない」のと、それを神の真理だとして宣べ伝えるのには、決定的な違いがあるということです。アブラハムが自分の理解していなかったことを宣べ伝えましたか。イエスが終わりの日と時刻に関して述べたことがありますか。使徒たちが勝手な解釈を聖霊の導きを得て決定したと言い、その解釈を批判する人やそれに従わない人を背教者と呼んだことがありますか。彼らは人間としての不完全さを持っていましたが、神の言葉を誤り伝えることはありませんでした。

自分たちの罪を認め、悔い改めるどころか、このように正当化しようとする人々がクリスチャンとしてふさわしいのでしょうか。ものみの塔協会は悔い改めない悪行者にとるべき処置を、次のように述べています。

悔い改めない悪行者を会衆から排斥するのがなぜ愛のあることなのでしょうか。そうすることはエホバとその道に対する愛の表明であるからです。(詩編 97:10)この措置は義の道を追い求める人々への愛の表われです。なぜなら、悪い影響を及ぼしかねない人を、義の道を追い求める人々の中から除くことになるからです。また、その措置は会衆の浄さを守ります。(コリント第一 5:1-13)
「排斥―愛に基づいた備え?」『ものみの塔』1995年7月15日号、25-26ページ

たとえたばこ一本吸っただけでも、悔い改めなければ排斥されます。600万人もの証人を誤導しておいて、悔い改めない統治体が指揮する組織が正しいと言えるでしょうか。


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